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作成日:2011/06/20
心の通信H19・11・9《同苦同悲(共感)の喪失》
同苦同悲(共感)の喪失 
 
 人間の心の未熟さというか愚かさというものはどこから来るのであろうか。確かに、規範やモラルを欠いた社会といわれ、法律や道徳を何とかしようと躍起になっている現実であるが、そもそもそのような法律やモラルなどを主張、制定する必要のない社会などは考えられないのだろうか。
 ある家庭裁判所の主席調査官によれば、最近の少年非行の実態は「人の痛みがわからない」共感性を欠いたものだという。非行は飲んだくれのオヤジやホームレス、老人など弱者対して向けられた非情なもとなっている。バーチャル(仮想)化した世界にのめり込むあまり、現実から激しく逸脱し、感覚が麻痺したネット犯罪はますます深刻化し、さらに、そのことが、非行グループというような集団性すら崩れ、非行は単独化し、しかも、悪意や憎悪のあるものと、ないものとの二極化が進み、犯罪を繰り返す累非効率が高くなっているという。そして、その憎悪が現実化する犯罪が、身近な家庭を場にして起こり、犯罪そのものの社会性が喪失している現状だという。
 この少年非行の現実は、しかし、少年に限らず、社会そのものの実態でもある。これが日本の紛れもない現実だが、しかし、世界中で起きている現実でもある。
 飛躍してもうしわけないが、これは、闘争、紛争、戦争、それらが個別のものであろうと、集団のものであろうと、非行や犯罪のものであろうと、イデオロギーによる革命のものであろうと神の名の聖戦のものであろうと、それは激しい欲と憎悪に基づいた「暴力」の連鎖という人間の心の未熟さ愚かさを反映したものにすぎない。
 トーマス・ゴードンが開発した「親(おや)業訓練講座」のインストラクターによれば、あらゆる人間関係の問題を解決するには親と子の基本的な関係が大切で、親のための学びの場が必要となり、それはひとえに親と子の「心とこころの架け橋」をいかにして築くかにかかっているという。そして、その基本は「私」がいかにして相手の話を聞き、いかにして相手に話し、いかにして相手との対立を解くかを見つめることによって、相手との架け橋作りを成功させるかということだという。これは親や教育者、医療機関、更生保護関係機関の従事者に対する、よりよいサポートのための心を育むコミュニケーションづくりの訓練講座でもあったが(そもそも、これは、混乱したアメリカ社会の臨床心理の現場から立ち上がったものであるため、訓練を受けたインストラクター特有の臨床現場におけるマインドコントロールの匂いが気になるが)、押さえどころは、お互いがお互いの自己を感じ、理解するには自己理解が不可欠であるということにつきる。
 この11月1日から改正された少年法が施行されるにあたり、ある更生保護委員会の委員長が「壱千を超える法律が作られている現状だが、このような法律が全く必要のない社会は実現されないのだろうかと思うとじくじたるものがある」という。
 結局、ひとりびとりがその愚かさに気づく自己理解(自己反省ではなく、あるがままの自己を理解する)がなければ、コミュニケーションどころか、ますます対立は深刻になり、人間社会は滅びるしかないのだろう。
人間の心の未熟さや愚かさというものはどこから来るのか。世の中や社会が悪いのだと言うことはたやすい。が、それでは、あなたが世界を統べるものにでもならなければ解決できないことになる。問題は「私」自身である。「私」自身の自己理解の欠如にある。自己理解の欠如とは「あるがままに自分を理解することができない」ということ。生まれてこの方、あるがままの自分には、人生の喜怒哀楽、葛藤、苦しみ、歓び、憎悪のすべてが現れてきている。いわば、自己とは、あらゆる人間関係を映す鏡であるのだが、そのあるがままの心の叫びに耳をかし、もだえ苦しむ自分の心に寄り添いつつ、自己を理解することをしてこなかったという、自己に対する無理解がすべての混乱、葛藤の原因である。なぜなら、社会は私自身が作り出したものであり、私自身は社会が作り出したものに他ならないからだ。そしてその私とは個別の私でありながら、また、すべての人間や生き物に等しく現れている「私」自身でもあるのだ。彼の悲しみは実は私自身であり、彼の苦しみは私の苦しみであるのだ。彼の激しい憎悪や怒りは私自身の激しい怒りや憎悪でもある。彼の孤独や弱さは私自身の弱さであり孤独なのだ。こうした共感は自己理解のないもの、自己をあるがままに理解することができないものには生まれてこない。
 仏の言葉に「同苦同悲」という言葉があるが、これはこんにちわれわれが喪失しつつある「共感」と同義であるが、しかし、間違えてはいけないことは、これは、一般で言われる同情心とか哀れみの心とか赦すとかいうことではないということ。どこが違うかと言えば同情心や悲しみ、赦しはあくまで、私が他人を見ていて同情し哀れみ、赦しているという自分と他人との間に溝が厳然として横たわっており、そのようなものはいかに理解しているかのように装っても、無理解でしかないのだ。自己理解のないものに同苦同悲は理解できない。法律や規範にかけるものは「自己理解」なのだろう。こんにちの社会、日本や世界の混乱と葛藤はこうした自己理解の欠如がもたらしたものであるのだ。
 ということは、この社会を映す鏡である自分自身のありのままの葛藤を理解したときに、はじめて、規制でも強制でもなく、信条や規範でもなく、あるべきものでもない、自ずからなる本来の厳粛なる秩序、すなわち、この世の正邪、善悪、生滅、暴力非暴力に翻弄されない不生のものが輝きだす可能性があるということだ。


                          萬歳楽山人 龍雲好久