作成日:2011/06/20
心の通信H20・5・16《いま ここ なる 「わたし」とは》
いま ここ なる 「わたし」とは
いま、ここで、認識している「わたし」があるから「世界」がある。
つまり、「わたし」という認識の主体があるから、「世界」が認識され、それに基づき、反応し、関係性を展開して、「世界」が形成されている。
関係性は「わたし」、「あなた」、「それ」、あるいは、「私たち」、「あなたたち」、「それらたち」という認識の主体化によって成り立っている。人間ばかりではなく、動物・植物鉱物、森羅万象全てはそれぞれ個々の主体性に基づいて関係性を生じ、その関係性が世界を生じさせている。細胞も、分子も原子も素粒子もそうであり、地球も月も太陽も惑星も銀河も星雲も大宇宙一切が関係性を持ちうるのは、それらが、関係性の基盤ともなっている個々の主体性を有しているからである。そして、個々の主体性は、実は、主体性という全体で統合化されている。これは、最先端の科学でも気づいていることでもあるという。 この広大無辺なる大宇宙の一切、極微の世界から極大の世界に至るまで、世界の存在の基盤を支えているものが、実は、この「主体性」というものであるとすれば、この「主体性」というものは何んであるのか?これは、人類の永遠のテーマでもある。すなわち、この万生万物が有する「主体性」、「世界を認識するもの」という認識そのものを決めている「わたし」とは、いったい何なのか?「わたし」という自己感覚の基盤となっているものは何か?遺伝子情報を情報として成り立たしめている当のものとは、その情報に反応し、判断し、動かしている当のものである「主体」とは何か?現代科学がそれを問う段階に来ているのだが、しかし、それは、いま、ここで、認識し判断し働いている当の主体性である「わたし」が「わたし」自身に問わなければならないテーマでもある。「わたしとは何か」。「わたしは誰か」。人類の永遠の哲学であり、宗教である、この主体性の問題は、人類の政治・経済・文化・教育・産業等あらゆる活動の基盤ともなる問題でもある。
どういう訳か、現代はこのあらゆる存在における「わたし」が危機に瀕している。地球も、自然も、人類も、国家も、社会も、家族も、個人も、あらゆるレベルで「わたし」が危機に瀕している。個々のわたしが病んでおり、世界という全体の「わたし」も病んでいる。世界が病み、わたしが病む。いつの時代でも、個々のわたしが病めば世界全体が病み、世界が病めば、個々が病むものであった。たとえば、最近の日本の教育の問題に、郷土を愛する心とか、人の痛みを理解する心を育てねばと言うようなことが話題になる程、人心の荒廃は激しい。「昔の日本はすばらしかった。日本文化は江戸時代までは世界に冠たる文化的、技術的、精神的素養があったが、現代は、産業と情報のグローバル化の中で、日本の文化も、技術も、精神も、皮相で希薄、何も学ぶべきは全くない。」とは、ある国々の日本に対する評価であると聞く。要するに、国家社会が病んでいるというのである。では、この混乱し、解体しかかっているこの国とこの国の国民を立て直すために、道徳や武道や儒教の仁義礼智信を復活させ、個人より家族や社会、国家、民族、地球的全体を優先できる有徳の人間になるべく、モラルや社会規範を厳しく指導するとでも言うのだろうか?しかし、ナショナリズムやイデオロギーによって制御された人々が、現に行っていることで、あの破壊性や非人道性は何だろう?宗教やイデオロギーにおける原理主義がテロリストとなって、自分たちの教義や価値観、イデオロギーに反するものを敵対視し、自らが阿修羅となって、破壊活動を繰り返す、悪夢のような現実がある。自由主義であろうが社会主義であろうが、現代は「わたし」が危機に瀕していることに変わりはない。
それは、主体性である「わたし」の問題をきちんと見ていないことによる人類の付けが現代にまわっていると言っていい。「主体」を理解できない限り主体を見失っているのだから、混乱するのは当然であり、その混乱の苦しみを苦しみと感じない、硬直化し、麻痺した「わたくし」こそが病んでいるわたしであり、社会であり、自然である。
それゆえ、現代の緊急の課題は、この主体性たる「わたし」をどう理解するかにかかっている。それは、「自己知」による以外にはないのだ。
しかし、世界がここまで「わたし」という主体性の問題をないがしろにしてきた(自己主張するにしても自己滅却にするにしても、曖昧な自分でいるにしても、あるいは人権や自由を主張するにしても、神や国家、あるいは全人類のためにというイデオロギー的権力や威信の前に自己没却するにしても)理由は何であろうか?
それは、主体性が「わたし」という自己感覚に基づいているがゆえに、自他対立の問題を常に孕んでいるからである。自分と他者、「わたし」と「あなた」との絶えざる関係性の問題を孕んでいる。これは、また、「わたし」の「内と外」という対立。あるいは、あるべき自分とだめな自分という自己内部における対立のように、「わたし」と他者との「複合と分離」、「融合化と対立」という葛藤や理解の問題がその核心をなすものだからである。
銘々が持つ「わたし」は、この「わたし」から見れば「あなた」はこの「わたし」とは異なる「わたし」である。「わたし」を「わたし」と認識している「わたし」は無数にいるが、そのどれ一つとっても、同じものは全くない。「わたし」は「わたし」であり、「あなた」は「あなた」である。また、わたしでもあなたでもない「それ」は「それ」であると・・・・。「わたしは」世界をわたしとは異なる、個々別々のわたしの集まりと見ている。だから、この「わたし」も、その世界の一部分だと見ている。このような感覚にあるとき、冒頭に述べた、「わたし」が無くなったら、認識の主体がないのだから「認識される世界はなくなる」のだということは、にわかには信じがたい。なぜなら、あなたやそれが消えることがあっても、わたしが残っていることがあるように、「このわたしが消えても、世界は存在し続けている」と思っているからだ。世界があってその中でわたしが生まれ、やがてわたしは世界の中に消えていくと思っている。よどみに浮かぶうたかたのように、無数に現れかつ消えするはかないいのちがわたしだと思っている。世界はわたしが生まれる前からあり、わたしが死滅した後もあり続ける、わたしひとりくらいが消えても世界は微動だにしない。その証拠に、彼が死んでも世界は全く変わっていないだからと・・・・。遙か以前の祖先が住んだ石室に今のわたしが住んでいるが、やがてわたしが消えても、ここには誰かが住むであろう・・・というように、世界はわたしの有無に全く影響されないのだ。ゆえにわたしが消えれば世界も消えるという思いは間違いであると。このように、ほとんどのものは感じている。このような自己認識が「わたし」という主体性の問題を軽んじてきた背景にある。
さらに、人間や動物で言えば「わたし」という認識の反応、主体性は脳の働き、脳の現象にすぎないと見ている。「わたくし」とは、知識や経験をふまえた脳の働き、あるいは、「わたくし」は遺伝子情報による作用と反応の結果にすぎないというのだ。「わたし」すなわち認識の主体なるものは、単なるよどみに浮かぶうたかたのような、何らかの偶発的なこの自然界の刹那、刹那(時々刻々に変化変滅し、発生しては消えていく)の現象の結果にすぎないというのだ。
では、それならば、なぜ、主体性というものが、かくも世界中に立ち現れるのであろうか。少なくとも、世界に目を向けるならば、それぞれの主体性は世界の存在を構成する要である。因になっている。極微の世界であろうが極大の世界であろうが主体性が存在の関係性を決めており、これら、個々の主体性なる反応がなければ、生命も発生しなかったろう。集合、離散、様々な関係性における反応は起こりえず、ビックバンも宇宙生成も起こりえなかったろう。この「主体性」たるものはどこから来るのであろうか。
こうした、変化変滅すら起こすところの「主体性とは何か」を理解することが重要なテーマなのである。紙面の都合上、今回はここまでとするが、実は、主体性なる「わたくし」の本質が「不生」であること。それを全人類が理解しなければならないこと。そして、その認識の主体なるものは、まさに、いま、ここにあり、認識の主体を過去や未来におくことはできないということ。いま、ここにこそ、世界のあらゆる問題の解決の糸口があるということ。その糸口とは「わたし」が「わたしに」問う主体性の中にこそあるということを機会があれば、述べていきたい。どうか、各人が各人自身で「わたしは誰か?」探求していただきたい。それが、いかに重要であり、緊急の課題であるかを今回は述べたかった。
萬歳楽山人 龍雲好久