トップ
サービス案内
沿革
事務所案内
税務会計ニュース
今月のお仕事
相続コンテンツ一覧
リンク
お問い合わせ
プライバシーポリシー
ご紹介できる先生方
作成日:2011/06/20
心の通信H20・11・5《円空仏》
 円空仏

 ここは、飛騨の山奥深く、海抜900メートルほどの千光寺という古刹。
広々とした天空と、全山にみなぎる沈黙の力は圧倒的で、あらゆるものに浸透し、シンとして閑かである。
 ここでは、訪れる人々の声も、山林を渡る風も、雨だれる清流の音も、突然の来訪者に驚く鳥の声も、この静謐な沈黙を破るものはいなかった。
 静謐なる沈黙、それはまさに不生なるものであり、それが凛として漂う寺である。それは、訪れるものをして否応なしにつつみこむあの如来の慈悲でもあった。
 そのようなことを感じていると、ふと、笑みをたたえた鉈削りの古い木っ端の仏に出会った。締め切られた暗い堂内でただ閑かに笑みをたたえた小さな仏像が控えめにたたずんでいた。円空がここで彫った仏であるという。ほとんどは宝物館に不釣り合いに展示されていたが、その円空仏の持つ慈愛に満ちた微笑みの力がそのことに影響されることはなかった。
一見、ドンとした固まりで、近寄り難いほどの力強さ。荒削りで、無骨。原始的で、アニマ・アニムスの呪術的代物のようにも見えるが、しかし、よくよく見ると、それは何ともいえず天真爛漫であり、愛くるしく、繊細。全ての悲しみと恐怖を忘れらせる優しい微笑みが、拝するものの心をとらえて放さない。この優しさは何だろう?理屈抜きに安らぎをもたらすこの微笑みはいったいどこからくるのだろう。言いしれぬ懐かしさがある。明らかにこれは我々が失って久しい微笑みでもあった。
 円空は江戸初期の僧で、全国を行脚し、人々の苦しみに応じて、12万体もの一刀彫り木っ端仏を顕した。病に苦しむものには薬師仏を、往生を願うものには阿弥陀仏を、魔性に苦しめられるものには明王をと、人の苦悩をみつめ、その苦しみの救済を願って、実にさまざまな慈愛に満ちた仏を刻んだ。確かに、その仏の微笑みの奥に苦悩と絶望にもがく、深い悲しみが見つめられている。厳しい自然や風土、社会の中で、その風雪に耐えながら必至に生き抜かざるをえない狂おしい程の人生。実に、業(ごう)というあくたもくたのわれわれが、うちひしがれつつも、喘ぎ喘ぎ、それでもわが愛するものを必至に守ろうとする、あのせつないまでに壮絶な愛の力。その奥底からの苦悩の叫びをただひたすら聞き、見つめている。苦しむものの深い悲しみに寄り添うあの無量の慈悲、それが円空仏の優しい眼差しと口元の微笑みであった。「苦しいの?せつないの?不安なの?、恐ろしいの?助けてほしいの?・・・大丈夫。大丈夫だよ。絶対!大丈夫、安心なさい・・・どんなに苦しくとも、どんなにせつなくても大丈夫だよ。怖がらなくていい。逃げなくてもいい。大丈夫だよ。きみがね、いま、その苦しみや絶望を感じているということはね、きみ自身が在るということだよ。そのきみはね。その苦しみや悲しみがわかっているきみはね、その苦しみや悲しみ以上のものだということなのだよ。さ、そのきみ自身に帰ってみたまえ。大丈夫だろう?きみ自身は少しも傷ついていないことがわかるだろう?そうなんだよ、きみは、きみのいのちはね、もっと、もっと深いところにあり、この世界の苦悩の波に微動だにしない深いところのものなのだよ。そう、きみ自身でいればわかるだろう?きみはね不生の仏心なのさ」円空仏のひとつひとつはわれわれひとりひとりの苦悩に添いながら、静かに「いまここに、あなた自身でありさえすれば、なにもおそれることはない。あなた自身は不生の仏心なのだから・・・」と優しく微笑み語りかけている。
 訪れた飛騨千光寺の住職は留守であった。なんでも、あちらの病院こちらの病院、高野山、大学、テレビ局等々にでかけて勢力的に活動し、終末のターミナルケア、スピリチュアルケアに東奔西走しているのだそうな。それでも、飛騨のここは実に静謐なる沈黙、不生に満ちていたのである。
                  萬歳楽山人 龍雲好久