作成日:2011/06/20
心の通信H21・1・19《物心一如》
物心一如
年末、片付けものをしていたおりに、家内が「納戸の奥の隅にこれがありましたが、これは処分して良いもの?、それともしまっておくもの?」といって持参したものの包みを開けてみると、何と!それはわが真言の恩師阿闍梨から賜った条幅であった。わが父がかってに人にあげてしまってもう無くなってしまったものとあきらめていたものであった。というのも、その文言は、間違いなく寺標の石柱に彫り込まれた恩師のもので、それはすでに、その寺標を寄付してくれた檀家さんの家の床の間に大事に掛けられていたのを目にしており、当時、それを差し上げてしまったわが父を「師匠から直接私にといただいた大事なものをなぜ・・・」と激しく抗議したことがあったからだ。しかし、今回、出てきたものをよくよく見てみると、それは一字抜けて脇に添えてあるものであった。つまり書き損じのものであった。書き直してくださったものが寺標に彫りつけられ、その直筆の原稿を(その寺標を寄付してくださるかわりに)石屋さんにさしあげてしまったのだった。そして、いま、この、一字抜けてしまったものが私の前に現れたのである。それを再び見て、懐かしさや嬉しさよりも、今、この恩師の書を拝見し、その内容にハッと驚愕させられる。それは、まさに、いま、小職自身が考えていることそのものを示す内容であったのである。
これは、かつて、わが敬愛する恩師大阿闍梨耶青木融光大和尚を東京都清瀬市円通寺に尋ね、不遜にも「弟子好久に対し、師がもっとも大切にされている真言とお言葉を賜りたい」と懇願して書いていただいたものである。師は当時90歳を超え、わが宗派の最高位の阿闍梨で、日本の宗教界ではじめて「お経の声明世界公演」など伝統的宗教の優れた遺産文化を継承し、世界に紹介した功績により、人間国宝であった。しかし、幸いにも、私はこの師匠の仏縁を頂戴し、内弟子(身内の弟子)として、自分の孫のように可愛がっていただいた。その師匠が書いてくださった内容は次のようなことである。
『三世常恒に宇宙法界を照らし給ふ 大日如来 凡聖を貫き 十方に普く 自他一如真心 白淨の蓮華の如く 圓明の月輪の如く 清浄無垢 圓満無碍の 心・物と対立する心でなく 物心不二の霊体である』
これは、「過去・現在・未来全ての世界を照らし続けておられる大日如来の慈悲の光は、全宇宙を遍く照らしている光であり、また凡夫(煩悩にとらわれ迷っている人々)も聖者(煩悩の迷いから解放されて、真実に目覚めている人々)をも隔てなく、自他の分け隔て無く、全てに等しく透徹している光であり、不生の仏心である。この不生の仏心はあの泥沼に咲く白蓮華のように、また、虚空に輝く満月の光のように清浄で汚れなく、全てに充足し、障り無く、自由自在である。この大日如来という不生の仏心は身・心・魂・霊・仏一切に透徹し、包括しており、凡聖不二(凡夫・聖者区別を超越)にして、物心不二(物・心の区別を超越)の大神霊体である」ということであろう。
現代世界の混乱をもたらしている最大の原因は、この凡聖不二・物心不二の正法を欠いているところにある。グローバル化した世界を管理するコンピューター社会の最大の欠陥は「生身の身体」を欠落しやすいという点にある。生身の身体とは実身であり、われわれの直接の心身であり、それを生み出す宇宙自然の生々流転する物質界そのものの実像を意味する。これに対し概念やイデオロギー、観念、信念、知識、数値、情報、データ、バーチャルなものは人間が便宜上編み出した文字化された虚像であり、仮身であり、生身のものではない。ネットワーク社会もバーチャルな社会も理論物理学も数学も天文学も遺伝子学もこうした仮身を通して無限の宇宙の実身を把握したり、管理統合しようとするものであるが、これら仮身はいか優れた膨大な理論であろうとも、実身を乖離すれば虚論妄想に過ぎなくなる。よく言われるように「リンゴのおいしさをいかに分析し、数値データ化し、ことばで表現し、写真や絵に描いて説明しても、リンゴそのものを伝えることはできない」ように、この世界に生きるわれわれにとってこの生身の身体を忘れて生きることはできないということは明らかである。しかるに、肥大化した経済ネットワーク社会で人間の稚拙な自己中心性がこの実身の世界を破壊し、いや、まさに、われわれの生身の身体を支える基盤を破壊している。このまま突き進めばあと、三年か四年で人類社会は確実に滅びる方向にスイッチが入るという由々しき事態に立たされている。「生身の人間の苦しみを忘れた社会は滅びるしかない」のである。どんな高邁な政治イデオロギー、経済理論・宗教上の信仰や信念を掲げ聖戦と称して人類救済を叫んでいても、それは自らがある化身に依存し逃避しているに過ぎないという、その奥に潜む自我の自己中心性に気づかない限り、こうした真理という名の下に仮身に妄信し、世界を破壊し続ける。自己の信念が欲望なるがゆえに、生身の人間の悲しみや苦しみを見つめることができないということに気づき、自己の妄念を取り外さない限り、その愚かな所行が終わることはないし、貪欲な人間にコンピューターと知識という道具を預ければ、まさに、その自己中心性が、全体の調和を破壊することは確実で、それが、今日あらゆる社会で起きている問題の根本原因である。
人々は愚かにも、危機に立たされなければこうした問題には容易には気がつかないようである。身体に激痛が走ってやっと自分は病気だと知るようなものだが、気がついたときにはもう手遅れだったでは済まされないことは確かである。
人類全体が不生に目覚めるべく意識の変容を起こさねばならないのは、まさに、今!時間はない!あなたや私が、いま、ここで、人類の根本問題に目覚めなければ、人類は滅びる。それとも、(そんなことは、考えすぎだ。そのうち、何とかなるとか、自分のいのちだっていつまであるかわかりはしないのに、そんな人類の問題だなんて大仰な、そんなことは無関係だね。滅びるなら、滅びるまでさ)と他人事のように思ってしまうのだろうか。しかし、その滅亡の苦しみはあなたの子孫や他人の問題ではなく、あなた自身の問題であり、その苦しみにもがくのはあなた自身であるというのに・・・・今年のテーマは「物心一如」であり、まさに人類が直面している最大の課題である。
萬歳楽山人龍雲好久