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作成日:2011/06/20
心の通信H21・3・17《明日香より陸奥に》
 明日香より陸奥に  

 厳寒の一月であるというのに、境内に咲く鑞梅に降りしきる雪は雨混じりであった。お参りのものもほとんど無く、とりわけ静かな一日であった。
 しかし、突然、玄関のチャイムが鳴り、出てみると、ものもらいの夫婦連れであった。「困っているので、何かたすけてください」と懇願する。寒空に汚れきった衣服と手や顔は実にみすぼらしい。黙って、幾ばくかののものを渡してあげるのだが、受け取るときに見せる力ない笑顔は欠けた歯で痛々しい。今朝から4組目であった。このあたりは街道沿いのためか、総じて月に10人から15人程ものもらい(乞食)が来る。見るからによぼよぼなものから、大柄で屈強な体格の持ち主まで、実にさまざまな人たちである。そうなるにはそうなるだけの深いわけがあるのであろう。
 しばらくして、再びチャイムが鳴り、出てみると、これまた、裸足で雪駄の老人であった。しかし、今度は、ものもらいではなかった。が、その出で立ちは似たようなものであった。一昨日尋ねてきた華厳宗の僧であった。彼は祖父の願いで幼少の頃、奈良の東大寺に預けられ育ったが、或る寺賜わるころ、タイの仏教との出会いがあり、強い影響を受け、東大寺を離れ、今では、古物を商いながら、寺などを巡り、生計を立て、タイ仏教の支援活動をしていた。実に質素な生活ぶりで、まさに乞食坊主そのものであるが、仏教に対する広い見識と釈尊に対する熱意と華厳宗へのプライドは年齢を感じさせない情熱を持っている。
 彼はいつの頃からか、月に一度はこの寺を訪ねるようになっていた。この日は、もう夕暮れ時で、彼としては珍しい時間帯の訪問であった。
 「いや、実は、あれから奈良の東大寺の後輩の僧と電話で話し合ったのだが、やはりこの聖観音を供養してもらうのはあんたさんをおいて他にないね」ということで、「何とかこの観音さまを引きとってくれんかね」というのである。私は、しばらく無言でいたが、心に期することがあったので、とりあえず本堂に上がってもらった。
  それは、ちょうど、一昨日の1月27日ことであった。いつもは護摩を焚く日の28日に必ず尋ねてくるこの老僧が、珍しく、是非、見て欲しいとあの総丈五尺ほどの木像の聖観世音菩薩を持参してきて、一日早くやってきた。ここのところ忙しく、彼に会うのは、ほぼ3ヶ月ぶりのことであった。
  彼の言うには、「この観音様は奈良時代に像立された聖観世音菩薩であるが、明治維新の廃仏毀釈で寺が放火され、当時の信徒らが命懸けで担ぎ出したものである。だが、哀れにも御身と光背は黒く焼けただれ、見る影もないほどであった。寺はそのまま廃寺となり、助け出した家で代々御守りしていた。昭和のはじめ、あまりにもいたましいお姿の観世音を是非にもとのお姿に蘇らせようと発願し、仏師を頼んで、御身と光背を復元したものである。御覧のように奈良飛鳥の薫りが漂う面立ちである。この尊像のおみ足には仏師の銘が刻んであり、よほど会心の作だったのであろう。ただ、台座と御手の蓮の華は幸いにも焼けるを免れたもので、奈良そのままのものである。」
 『実は、この度、奈良東大寺の後輩の僧が「この聖観音を勧請し拝み奉らん寺あらば探されよ」と依頼してきた。偶々、法圓寺に立ち寄った』というのである。
 この聖観世音菩薩を一見すると、一瞬、ビジョンが走り「ウッ!」となった。なんと!そこには慈しみ深きこの観世音菩薩の御前で涙をこぼしつつ「ありがたや、ありがたや」を拝むわが母とその姉の伯母があったのだ。母も伯母も寺の娘で育ち、仏をとても大切にしていた。この二人の母に私はこよなく愛されたものである。母は生来病弱で63歳で他界したが、伯母は93歳の長寿を全うし一年ほど前に他界した。たかだか五尺ばかりの観音であったが、そのビジョンでは観世音は御身の丈が20メートルもある大きさであった。その足下で、小さな母と伯母が並んで正座して拝んでいる。言いようのない懐かしさがこみ上げてくる。亡き母たちの恩愛と観世音菩薩の大慈大悲が重なってしまったのだろう。ひどく心打たれたのだが、彼の僧のいうには、「この観世音を勧請するのに200万円のお布施を納めて欲しい」というのである。
いくらありがたくとも、小生には、全く無理、とうてい及ばぬものであるので、心の内を見抜かれぬよう、思いを切って、ちょうどそのとき別の来客もあって、「これほどのありがたき観世音ならば、必ずや迎へ奉る御寺のあらわれいでん。是非に他に探したまへ」と言い、早々に帰えってもらった。そして、この件は、久しぶりにありがたい観世音菩薩を拝むことができて良かったということで、全く、放念していたのである。
 ところが翌28日、いつもの通り、本堂で護摩供養法を修法していると、この観世音菩薩、再び、心中に現れ出できて申されるには「われ、汝が行法をたすけんがため、いまここに参りしものなれば、汝、いささかも案ずることなし。一心に正法行道に励むべし」と。(そうか、心の中でいつでもお助け下さると言うことなのだな。もったいない)そう思って、翌29日、厳寒の1月であるというのに、境内に咲く鑞梅に降りしきる雪は雨混じりでとりわけ静かな一日を迎えていた。そして、夕暮れ、彼の華厳宗の老師、再び来寺したのである。「われ東大寺の僧と話たれば、この観世音菩薩を供養し奉る僧は汝が外にあらざりき。これはこれ南無観世音菩薩のお告げなるべし。お布施は汝が都合にて納むればよろし。是非、この聖観世音菩薩を供養し奉れ」と、彼の僧と観世音菩薩のみ声とが重なって申されるごときであった。
 奈良時代の古い観世音菩薩が、踏まれようが焼かれようがその激動の歴史を乗り越えて、いま、ここに、ましましたることは、ちょうど、まさに今、世界中があの放浪者たちのように破綻を来たし、危機に直面しているその絶望的な苦悩と悲しみの叫びをお聞きになられて、何としてでも、人々をして不生の仏心に目覚めさせ、救済せねばという大慈大悲の無量のお働きをお示しになっておられるに相違ない。
 このつたない心の通信に触れておられる方々、全ての方々に聖観世音菩薩の無量の大慈大悲が届きますよう切に願って止まない。

ありがたき あすか明日香の里より なむかんぜおん南無観世音
    ひさめ雪雨に濡れし鑞梅の かほりほのかな おく陸奥のみてら古寺に 
             萬歳楽山人    龍雲好久