作成日:2011/06/20
心の通信H21・5・18《念彼観音力(ねんびーかんのんりき)》
念彼観音力(ねんびーかんのんりき)
朝まだきまどろみの山の中腹から幽かに鐘の音がひびいてくる。その音に驚いて森の小鳥たちがチチと目を覚ます。が、あたりはまだ眠りの中にあるらしく、沈黙のままにある。しばらくして、鐘の音が再び、微かに、しかし、やや強めに響き渡る。小鳥たちはすっかり目覚めたらしいが、空も森も街も、まだ、暗がりの中、静かである。やがて、パタパタとあわただしく石段を駆け上る雪駄の音がして、箒で掃き清める音がする。あたりはすっかり目覚めたようだ。はるか下の方の谷間の街で、カチャカチャ、キーッと自転車の音が響いてくる。丘の向こうではカタカタ、ゴーッと一番電車が足早に過ぎてゆく。 やがて、全山、萌え出る新緑に満ち満ちて、次第に明るくなってきた。
山の中腹の観音堂から、ドンドンドンドンと朝の勤行の始まりを告げる太鼓の音が鳴り響く。突然、鳥がチチッと驚き飛び立ち、再び、全き沈黙が覆った。老若男女の参詣者が399段の石の回廊をゆっくり、ゆっくり確かめるように登る。左右には150種、7千株余の牡丹の花々が朝露に濡れて初々しく、彼らを迎える。登り切ると隠りくの初瀬の谷を見下ろす舞台作りの『大悲閣』に至る。10メートルを超える楠の一木作りの十一面観世音菩薩が祀られ、掃き清められ磨き抜かれたお堂。1300年もの香りが連綿として漂う。早朝、すがすがしく、凛として、清浄である。僧も人々も、寡黙に、ただ無心に本尊に向かい、手を合わせ、祈念をこらし、佇む。すでに大勢の参詣者で溢れていたが、静寂であった。供物を供える僧たちの衣ずれの音がして、瞑目する者のそばを風を残して過ぎる。
やがて、支度が調ったのだろう。引金の音と共に、全ての僧侶たちが入堂し、礼拝が始まる。太鼓が鳴り、若々しく力強い読経の声が勢いよく全山に響き渡る。本尊御前の緞帳がゆっくり降りてきて、大きな大きな観世音菩薩の大慈大悲の厳かなお顔が現れる。そのまなざしはあまりにも懐かしく、優しい。その尊顔を拝する者は誰でも無心になる。何だろう。懐かしい、本当に懐かしい。よく来た、よく来た、よく来てくれたねと優しく迎える観音のこの懐かしさは何だろう。その観音の慈悲の御前に、僧侶たちの読経の声すら遙か彼方に消えて、圧倒的な沈黙の深いやすらぎがあたりに充ち満ち、しかも活き活きとしている。「念彼観音力・念彼観音力・・・・・」繰り返される読経が再び耳に届いてくる。
杖をつきつつ漸くたどり着いた老女がふと漏らす。「もう来られないかな、もう来られないかなと思ってましたが、今年も来られました。ありがたくて、ありがたくて、きっとこれで最後になるでしょう。それだけに嬉しいのです・・・」ふと、気がつくと、勤行も終わり、あれほど大勢だった参詣者も僧たちもみな下がり、その老婆とあの大きな観音さまだけが残っていた。小鳥の声が響き、さわやかな風に木々の葉が揺れて、葉ずれの音がして、「念彼観音力」の響きが聞こえ、彼の菩薩が語りかけてきた。
「あなたがたは 耳を傾けることを忘れている 犬がほえる声に 子どもが泣く声に
通りすがりのひとが笑う声に・・・・
あなたがたは あらゆるものから自分を切り離し その孤立したところから ものを見たり聞いたりしている
きわめて破滅的なのは こうしたあなた方の分離です
というのもそのなかで ありとあらゆる葛藤や混乱が生まれているからです
あなたが すっかり静まって あの寺の鐘の音を聞くなら あなたはその音にのっていくことでしょう いや むしろ 音があなたをのせて 谷をこえ 丘の彼方へと連れ去ってゆくことでしょう 音とあなたが切り離されていないとき あなたが音の一部となっているとき そのときはじめて その美しさが感じられます
瞑想とは 分離がなくなることです 瞑想は 生から切り離されてあるようなものではありません それは生の真髄であり 日々の生活の真髄です
寺の鐘の音を聴き 妻と連れだって歩いている農夫の笑い声に耳を澄ませ 通りすがりに少女が鳴らす自転車のベルの音をきく・・・悲しむものの声を 苦しむものの声を 怒り狂うものの声を 孤独にさいなまれるもののふるえている声なき声をきく・・・あるがままにきく・・・
瞑想は そうした生の断片に眼をこらし耳を傾け、世界のあるがままの音を観る(観世音)、そう!今のあなた自身の心である彼の仏心(念彼)にこそ 生の全体を開示するものです そして観ることが、聴くことが即大慈大悲の生きる力となるのです・・・」
この声なき声を聴いた老女の眼にはいつしかひとしずくの涙がこぼれていた。その放心している老婆を後にして、人は静かに僧坊に降りていった。人の心には、いつまでも「南無大慈大悲観世音菩薩、念彼観音力・・・・」の温もりがあった。
萬歳楽山人 龍雲好久