作成日:2011/06/20
心の通信H21・9・18《なにが狂気で、なにが正気であろうか?》
なにが狂気で、なにが正気であろうか?
9月に入り、やや冷たい風が季節の変わり目を後押しするかのように、真夏の日差しを遙か彼方に追いやった。間もなく刈り入れを迎えるのであろう田畑の畦を歩いていると、草むらで虫たちが心地よく鳴き、秋の訪れを告げている。そういえばこの夏、あれほどまでに鳴きしぐれていた蝉たちはどうだったのだろう。あまりにも短い夏にとまどっていたのは人間ばかりではなかったように思う。
長い間寺を中心に見えない世界と見える世界の狭間で生活をしているが、見えない世界といっても、何も死後の世界の魂がさまよっているおどろおどろしい世界とともにあるわけではなく、この見える世界を支えている本源の世界であり、不生といわれる世界である。何故に見える世界と見えざる世界が生じているのか、実は隠されているのではなく、目を覆っているがゆえに見えないだけである。さらに見る眼(ここでは心の眼であるが)が曇っている理由は環境汚染と同様、本質や本源をわすれて現象に縛られている人間の狭く断片的な自己中心性がもたらす汚染であり、狂気である。これは、ある意味で死後も存続するので、地獄の世界があたかもあの世に存在するように錯覚を起こすが、実は、心の迷いが投影する世界に過ぎず、本当の世界ではない。真実は心が迷っているというところに見なくてはならない。そこに見えている世界と見えざる世界との区分はない。つまり、迷いにあの世もこの世もなく、あるのは迷っているという事実だけである。もう少しつっこんでいうなら、見えているこの現象界の孤独な恐怖の苦しみ、飢餓に喘ぐ苦しみ、限りない欲望にさいなまれ、満足を得られぬ苦しみ、飽くなき侵略と略奪による争いの苦しみ、現象世界においてその本質を理解できず、安楽を求めてさすらい続ける苦しみ、絶対の真理の美名や神や天使や宗教の庇護のもと、偽りの天国に陶酔し、実際にはその天国を護るために悪魔のような欺瞞に満ちた嘘の世界から抜け出すことすらできない苦しみは、見えている世界にも見えざる世界にも、迷いがその世界を投影し生み出してしまうということである。であるから、単に心の迷いであるといっても、気のせいではなく、それを現象化させてしまう事実こそが、問題とされねばならないのである。心に投影し生み出したものが見える世界にも見えざる世界にも反映される事実は、人間ひとりびとりに責任があるということに他ならない。その苦しみこそが心の迷いを明らかにする事実であるともいえるのである。そのような意味で、心をあらゆる欺瞞により麻痺させることは人間性を麻痺させることであり自己の本質を失うことである。何故に迷い苦しむのか、その事実を見据えることができない心はさまざまに曇り、動揺し、混乱する。ざわめきたつ心は、真実(ありのまま)を映し得ないし、見ることはできない。
いま、本質があなた自身にこう問いかけてくる。
なにが正気で、なにが狂気だろう? だれが正気で、だれが知っているだろうか?政治家は正気だろうか? 聖職者たち、彼らは狂っていやしないか? イデオロギーに専念している人たちは正気だろうか? 私たちは彼らに操られ、型にはめられ、小突きまわされているかもしれない。はたして、私たちは正気だろうか?
正気とはなんだろうか? 全人的であること、行動や生活や、あらゆる種類の関係において、断片的でないこと・・・それが正気であることの本質だ。正気とは全体的であること、健康で神聖であることを意味する。狂気、神経症、精神病、失調症、分裂病、病名はなんでもかまわない。それは行動が断片的であるということだ。関係の動き・・・・、つまり存在そのものがばらばらになっていることだ。敵対や分裂を生みだすこと、これがあなたがたの代表である政治家のやってきた仕事だが、それが狂気をはぐくんでいる。独裁者としてであれ、平和の名においてであれ、他のどんなイデオロギーの名においてであれ、事情は同じだ。そして聖職者だが、彼らの説く世界を見るがいい。それぞれが真理であると見なしているもの、救世主や、神や、天国、地獄、それとあなたとの間に聖職者は立っている。彼は取次役であり、代理人であり、安心と悟りへ導く先達者という。彼は天国の鍵を手にしているという。こうして、彼は信仰と教義と儀式を通して、人間を調整してきた。彼はまことに伝道者である。あなたが安逸と安全を求め明日を恐れるからこそ、聖職者はあなたたちを調整してきたのだ。それに芸術家たち、知識人たち、科学者たち。たいそう崇められ称えられてきたが、彼らは正気だろうか? それとも彼らはまったく違った二つの世界に住んでいるのだろうか? 原子の探求が原爆を生み出したように、手術は成功しても患者は死んでしまったように、表現へ駆りたてる理念や想像の探求の世界があり、それは悲しみや喜びの日常から完全に分離しているものなのだろうか?
このように、あなたの周囲の世界は断片的であり、あなたもまた断片的だ。その表現が闘いであり、混乱や、みじめさなのだ。あなたがそのような世界であり、そんな世界があなた自身なのだ。正気とは、行為を伴いつつ人生を闘いなしに生きることだ。行為と理念は相対立する。見ることは行なうことだ。先に観念構成があってその結論に従って行為があるというのではない。それでは混乱を生むばかりだ。分析者自身が分析されるものだ。もし分析者が、自分を分析されるものとは違ったなにか分離したものだと考えれば、そこには衝突が生じ、この衝突の場に不調和が生じる。観察者は、同時に観察されるものだ。そこに正気があり全体があり、神聖なものとともに、愛がある。
この本質の声に耳を傾けないかぎり、未来はないであろう。
萬歳楽山人 龍雲好久