作成日:2011/06/20
心の通信H22・3・26《人生の諸問題 その1》
人生の諸問題 その1
1、はじめに(生死に直面した人生)
昨今の報道から「無縁社会」で孤独死した人が一年で三万二千人にものぼるという。孤立化する現代人の深刻な様相を如実に示している。ごく普通に、まじめに、家族のために、身を粉にして働き続けた者が、いつのまにか、一人、孤独に、動かなくなった身体を横たえつつ、独り、死に直面しつつ、誰にも気づかれることもなく、息をひきとる。3週間も3ヶ月もたって、たまたま、発見される死。それが交通事故でなくなる人の3倍にもなっているという。今日、これほどコミュニケーションの手段が発達し、利便性に富み、自由な環境が与えられているというのに、どういうわけか、不自由に、孤独に死んでいく方がどんどん増えていく。
思うに、孤独化・無縁化が進んでいる現実社会における重要な課題は、筆者においては、ひとりひとりの人生における「生死」の問題であり、また、希薄な関係性の問題であり、それは、いつの時代であろうと、個人はいつもその生死の問題にさらされているのであるから、畢竟、自分はどのように生き、どのように死ぬかという問題を、まさしく、誰もが独り直面せざるをえないのである。それゆえ当然、ひとりひとりが、いかに生死に向き合いながら、ひとりの人間としてどう生きるかを踏まえた上でこそ、はじめて、本当の生き方と関係性が成り立つのではないかと考えている。
先般、癌の宣告を受けた著名なジャーナリストが、癌治療の最前線の医療について世界中を調査し、さまざまな癌患者と面会した後、ふと漏らしていたことは、「癌は人類の進化と共に深く関わってきたものである」「このような癌患者の多くの方に対する面会を通して、全く驚いたことは、どんな瀕死の状態に陥っていても、死ぬまでは、全くの生きる力があるということ。死の直前でさえも、笑う力をもっているということだ。」「ここから、自分は無意味な延命治療を願うより、むしろ、死ぬまで、自分らしく生きることに全力を注ぎたいと思う」ということであった。
孤独な現代であっても、なお、ひとりひとりは、自分自身に直面する、心の力を持つことがいかに大切であるかが伝わるものであった。
しかし、この孤独な現代社会の、より深刻な問題は、心に潜む欺瞞性の問題ではないだろうか。ここでいう「欺瞞」とは、「事実に直面せず、幻想に逃避する」という意味で自己欺瞞である。この自己欺瞞が「自分自身のあるがままの問題に直面する心の力」を持つことを妨げている。
我々は、社会における高度成長期においても、逆に今日のような最悪の低成長期にあっても、なおいつも問われるのは、より有能で価値のある、優れた人間を求める社会にあって、いつも他者と比較され、勝者と敗者が問われている。あらゆる分野の成長と発展の美名のもと、その奥に潜められた飽くなき欲望の影。このような影に踊らされた社会は、どこか不自然で、おかしな問題や事件、犯罪が続出しているが、しかしそうした欲望の渦はとどまるどころか、進歩と繁栄の旗印の下、アジア圏を巨大なエネルギーの渦によって席巻している。激しい危惧を感じざるをえない。
2、自己欺瞞が自己の人生を欺く
ここ数年、オームの事件以来、宗教をツールとして自己欺瞞に走るケースは、なりを潜めていた感があったが、最近、また増えつつあるような気がする。心配される問題が出始めている。オームのような自己欺瞞に陥ったものの暴走の問題は、一概に片づけることはできないが、この問題の所在はかなりはっきりしている。彼らの問題は彼らひとりひとりの挫折に対する自己欺瞞から始まった。というのも、あの残酷な事件を起こした者のなかに、それまでは、実に、常にトップの成績と輝かしい才能を発揮した、天分の才ある、穏和で、しかも、まじめな、ただひたすら研究一筋に没頭していたと思われる者。どちらかと言うと研究のことしか頭になく世間には全く疎い、天才的な者がかなり含まれていて、世間を驚かした。だが、これは、いつも世間に叩かれ、敗北を味わい、挫折しながらも、何とかものにしようと歯を食いしばって、はい上がってくる者とは全く対照的に、何らかの事情で、挫折せざるをえなかったときに、そのあるがままの事実に直面できず、彼はそれをいわれなき言いがかりであると受け止めることによって、その脆弱なプライドを守り、世間と隔絶し、自己の世界に沈潜し、引き籠もることで、自分の存在意義を守ろうと躍起になる。持ち前の才能がかえって仇となり、それが欺瞞であればあるほど、その幻想と幻影を絶対の真実、誰によっても動かされえない真実の世界が実在すると信ずる。それを盲信・狂信とは思わない。なぜなら、それを盲信だ、狂信だ、偽善だとすることは、自己を否定することに等しいからである。彼らは脆弱な自分を絶対者と同一化することで、自己の価値を見いだそうとしているだけにすぎない。これこそ、欺瞞の構造である。自分に閉じこもって、自分が勝手に造り上げた世界にすぎないものを絶対の真理として仮面をかぶり、彼自身を拒否し、否定し、貶めた、この汚れきった社会を粛正するといって、聖なる戦いを挑む。まるで子供じみた狂気の沙汰を、まるで悪魔に魂を抜かれた者のごとく、無表情な薄笑いを浮かべて、平然と、あのようなおぞましくも悲惨な事件を巻き起こしてしまう。これらは、実に、愚かな欺瞞の構造ではないだろうか。
このようにして、彼らが「汚辱世界の粛正・浄化」と称して、手段を選ばず、殺戮と破壊を繰り返す行為(それは明らかに自己欺瞞から来ているものであるが)、そのようなテロ行為、暴力や非人道的な殺戮の背景にあるものは、抑圧され、虐げられ、挫折したものの恨みと怒りを増幅させ、爆発させるゆがんだ精神構造、すなわち自己欺瞞がある。ゆがめられ自己欺瞞とは、まさにかれら教祖と信者集団が陥っている「偽りを偽りとし、真理を真理としてみることのできない心理構造であり、偽りを真理とし、真理を偽りとするゆがんだ構造」を指す。いかに、巧妙に神の奇跡や、神秘性、瞑想法や知識でえた真理を駆使しようが、そもそも、自己の屈折した問題に気づかないものが、その問題を他に転嫁して自己逃避している限り、自己欺瞞であり、その欺瞞性があるがゆえに、それは真理でもなければ宗教でもないおぞましい幻想でしかないのだ。このようなものたちの行き着く先は、愚行と破綻。しかも、多くの人々を巻き添えにする許し難き欺瞞集団、暴徒でしかない。このような自己欺瞞の暴力的狂気集団は世界の至る処で見受けられる。
3、自己欺瞞からの解放(ブッダの根本)
この欺瞞性の問題を明らかにし根本から覆し、我々に明晰性をもたらされたのがブッダであった。とかく、概念的に真理や神という絶対者を云々するアートマンやブラフマンの欺瞞性を喝破したのがブッダであり、人間の苦悩の根本を見据えられてのことであり、その教えは、現代社会や我々にとってなお一層重大なことである。
.自己を超える偉大なる存在に対する畏敬の念をいだくことは、ごく自然のことであるが、しかし、今日に至るまで、宗教や信仰を背景にした侵略や搾取や戦争にまでエスカレートする問題の背後には明らかに人的なドグマに対する狂信や、人間のいわゆる「自我」による巧妙な欺瞞性が見え隠れしている。これは、そもそもブッダが一番はじめに問題とされたことではなかったろうか。今日といえども看過できない問題のはずである。
確かに、個人の尊厳と自己表現や信仰の自由を標榜する現代社会においては、各人の感受性により表現される芸術のようなものとして、いろいろな宗教や信仰を理解することも必要であるかもしれない。しかし、欺瞞に満ちた偽善性や狂気性の問題を放置することをブッダは許されなかった。
ブッダがその教えを垂れたのは、何といっても、ひとりひとりの覚醒にこそあった。現代における仏教の教化の重要なポイントも、まさに、この欺瞞に満ちた社会にあって、ひとりひとりの覚醒、すなわち、われわれ自身が自己の欺瞞性や偽善性を理解し自覚することによって、無明から脱却し解放を得ることにあるということにある。幻覚や幻影をもたらす自己欺瞞の宗教観に基づく限り、そもそも、ブッダがお示しになられた「阿字本不生」の仏心に目覚めさせうることははなはだ困難なことである。
現代のさまざまな問題を見るにつけ、ことに、現代はひとりひとりの探求心や思索(思惟)や瞑想(禅定)による「自覚のプロセス」が再び問われねばならないそう痛感せざるをえない。
ブッダはバーリー語仏典の「スッタニパータ」の中で、出家を求める基本的な理由として、(出家とは自己欺瞞から解放されることをいう)
人々はわがものと執着したもので悲しむ
(自分の)持っているものは常住(永遠)でないからである。
これは必ず失われる性質のものである、と判ったあとは在家(自己欺瞞)にとどまっていてはならない。
つづく
萬歳楽山人 龍雲好久