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作成日:2011/06/20
心の通信H22・1・16《永遠と不生(その1)》
 永遠と不生(その1)
 
 私たちの心の中では、ほとんどが、過去・現在・未来という時間の枠と、ここからあそこという空間の枠と、これによりあれが生ずるという原因と結果の枠の内で、物事を見、考え、行動している。そもそもこうした感覚はすでに我々が「生まれ、行動し、生きていく」というプロセスそのものとして、刻印された感覚である。これらは地球を取りまく宇宙環境の中で循環と運動リズムであり、それによってもたらされた、春夏秋冬、昼夜の別、あるいは夜の眠りや朝の目覚めである。その繰り返しであり、また、潮の満ち干に現れる引力や重力の作用である。そのような自然界のリズムや関係性によって、何十億年をかけて刻印されてきた、時間的空間的「感覚」である。
 あらゆる生命が植物の種子のように発芽(生)、成長、開花、結実、衰退、腐敗(滅)のプロセスを経ながら、刻々と新たないのちが出現と死滅を繰り返しながら、種を保存し、進化している。こうしたプロセス、あるいは、水のように大自然界を循環し、生命や環境を保全する働きようなプロセスが、我々の時間的空間的感覚をもたらすもととなっている。
 それは、もちろん、大宇宙大自然界の全体に流れる生命の営みとして重要な自己感覚である。この感覚を通し、人間は永い進化のプロセスを経て、全体として宇宙界における働きを直感的に享受する右脳の働きと、分析的、概念的、経験的な左脳の働きと、さらに、それらを統合的に判断行動する精神(スピリット)の働きを発達させてきたといわれている。だが、人類の遺産として残された遺跡や経典などの文物を見ていると、広大無辺な大宇宙の力をダイレクトに享受し、新たなものを創造する力は退化してしまったと云わざるを得ない。
 それは当然、自然を神々として崇め、自然にも神々が宿り、動物にも植物にも鉱物にもそして我々自身の五臓六腑、細胞の一つ一つにも魂と心が宿るという感覚は萎えてしまった。その最大の要因としては一神教という砂漠に暮らすものの厳しい掟から育まれた、概念論的宗教が世界を侵略し蔓延化する一方、産業革命以降発達してきた物質的な科学文明と近代合理主義により、右脳的直感力は退化せざるを得なかったことがあげられる。彼らは絶対なる神と永遠のいのちと正義による裁きに基づいて忠誠心涵養し、千年王国(ユートピア)建設の美酒に酔いしれ、繁栄と発展を数と力によって世界中をグローバルにまとめあげるべく、神の愛の旗印の下、教会や協会を拠点とし、侵略と支配を繰り返してきた。もちろん、世界大戦もその延長線上にあった。それは、自然界の生命を軽んずるものでありながら、一方では神の愛を掲げ、神の愛の名の元に慈善事業として悩み苦しむものの救済にあたってきた。神の愛のもと、片方に刃を片方にバイブルを手に・・・・この構図は宗教や政治的イデオロギーとそれぞれの国家観、たとえば神国・自由主義国家・イスラーム国家・社会主義国家・共産主義国家などなどそれぞれの世界観に基づいて覇権を争ってきたし、今日もなおそうである。手に持つ武器は諸刃の剣から核爆弾に至るまで、個々のいのちよりも神やイデオロギーの普遍性や永遠性を死守し、悪魔と神の二面性、搾取と享受の二面性をさらけ出しながら、世界経済市場を操り、熾烈なまでの戦いに走る。その操作は一個人であろうが、国家や民族総動員によるものであろうが、「構造は同質」で、自己の繁栄をいかに世界にまで深く浸透させるかという巧妙な世界侵略構想をもとになされる。こんにちではすでに、インドや中国などが世界の座を大きく塗り替えつつあるが、もちろん、これは、序の口で、これから先どのような展開になるか、その驚異的な潜在能力は計り知れない。だが、ここでも、忘れてはならないことがはっきりしている!その繁栄の構図には大きな落とし穴があるということ。もちろん彼らはその様に指摘しても聞く耳は持たないどころか、恐ろしく多忙で、結果が出ている内は自信に満ち満ちている。だが、それはすでにこれまで先進国といわれてきてきたものが辿ってきた破綻をきたす欲望の渦である。その欲望の渦の中心が移動したに過ぎない。彼らはその激しい渦を掟(宗教やイデオロギーなど)によってコントロールできると豪語するが、その掟は絶えず異端者を排斥するか、取り込むかのどちらかで自己中心性は変わらない。つまり、どんな高邁な理念を掲げようとも、結局、世界を搾取しているに過ぎない。 
 このような時期に我々人類に不可欠のものは「不生」という真実を見抜く「眼」である。「この世は歴時的因果によって成り立つ。その歴時的因果を無視した永遠なるものに執着することは、虚妄なる現実を直視できない自己逃避であり、現実を破壊するものである」こと。「全ては決して停滞することのなく変滅するものであり、無自性のものであるからそれを知らないで我執を張って苦しむな」という現実直視の直感力である。
 矛盾に満ちた繁栄から置き去りにされるものは、ややもすれば、迷信や幻想に狂走しかねなく、無為と虚脱感が充満する死に体を晒す。そう!それは、まさに、この日本が直面しているあのていたらくである。何という有様であろうか。とくに、憂えるのは、将来を担うべき若者の現実である。中学生や高校生や大学生のレベルは地に貧した感がある。彼らの学力の実態を知っているだろうか。実際に教鞭を執るものたちに尋ねてみる良い。彼らはこれだけ教育のレベルの高い国家に住んでおりながら、基本的読み書き算数が全くできていない。基礎学力に欠けたまま大学進学をしているため、全く大学の授業について行けない。というより、小・中・高どのレベルでもついて行けないまま進学してきたという異常事態が発生している。基礎学習能力が全く身につかないまま大人になっていくのだから、学生時代はともかく、家庭を持ったり、社会で働くといったときどうなるかは推して知るべしである。まして世界を相手にしたとき、いまの日本は土台が崩れてしまっているので将来性はないと判断せざるをえないのが現実である。子どもたちは二極分化し、中間層がない。おそらく、有能なものは国を出て、激しい競争の中で、利用されるだけ利用され、やがて、身も心もぼろぼろになり役立たなければ、捨てられるであろう。無能なものは無能なもので、行き場がなく、しかも貧しくなった国の中で、理解力も判断力も応用力もなく創造力もないまま、搾取され、あげくの果てにぽいと捨てられてしまう。あのホームレスが続出するのはむしろ、これからが本番であろう。しかもかなり長い期間を通して、衰退していくのである。まさに、虚構なゴーストタウン国家の始まりかもしれない。  
 そんなことを思いながら、凍てつく様な寒さの中、本堂の戸を開ける手に、幽かな朝日差している。おお!何という柔らかな温もりであろう。この日差しは間違いなくあの太陽からはるばるとここまでやってきてくれた温もりの光だ。そう思うと、何とも愛おしくなり、手をお椀の様にしてその柔らかな日差しをいっぱいに頂戴した。ふと足元を見ると25年は生きている捨てられて寺に住み着いた老描が濡れ縁の日向を求めてよってきた。空気は冷たい。人は全てを失わないと大事なことに気づかないのであろうか?
 本年は、釈尊の最も大切なところである不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去を探求していきたい。
萬歳楽山人 龍雲好久