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作成日:2011/06/20
心の通信H22・7・6《不生の仏心》
不生の仏心

 江戸初期の禅僧盤珪禅師が指摘された「不生で一切がととのう」とは、いったいどういうことなのであろうか。
 盤珪禅師は何度もこう語りかけられる。
 「親の産み付けたもったは、仏心一つでござる。余のものは一つも産み付けはさしゃりませぬ。その親の産み付けてたもった仏心は、不生にして霊明(れいみょう)なものでござって、不生で一切のことが調いまする。
 その不生で一切のことが調いまする証拠は、みなの衆がこちらを向いて、身どもが言うことを聞いてござるうちに、後ろにてカラスの声、雀の声、それぞれの声が、聞こうと思う念を生ぜずに居るに、カラスの声、雀の声が通じ別れて、聞きたがわず聞かるるは、不生で聞くというものでござる。その如くに一切のことが不生で調いまする。これが不生の証拠でござる。
 その不生にして霊明なる仏心にきわまったと決定(けつじょう)して、直に仏心のままで居る人は、今生より未来永劫の活仏(いきぼとけ)活如来(いきにょらい)でござるわいの。今日より活仏心でおる故に、我が宗を仏心宗と言いまする」。
 この盤珪禅師が直裁なことばに、解説はいらないのだが、それでも、禅師は江戸初期の方、現代は「仏心」、「不生」、「決定」、「活仏」、「活如来」ということばにはほとんどなじみがないので、理解しにくいと感じる。実は、僧侶でも必ずしもこの辺りを直截に把握できるものは、盤珪禅師の頃も、現代も少ないと言われている。これほど、簡単明瞭であるものが、どうして、難しくなるかというと、頭で理解しようとしているからにほかならない。「悟得」がなければ、ただのことばに過ぎないことを示している。
 それにしても、盤珪禅師が述べられる「仏心」とは何であろう。
 端的に示せば「仏のもつ心」、「仏のような慈悲深い心」を云い、その「仏心」一つのみをわれわれ自身に生み付けられ、活きているということである。  「仏」というのは「ほとけ」であるがこれは「完全なる覚り」を開いた「ブッダ(仏陀)」のことである。それは、とりもなおさずお釈迦さまであるのだが、正確には、ひとりの人間であるお釈迦さまが「完全なる覚り」を開いて、正覚者「ブッダ(仏陀)」となられたということである。
 ここで、大事なことは、ひとりの人間、それはとりもなおさずお釈迦さまであり、盤珪禅師であり、これをお読み下さっている読者ご自身、つまり、「私自身」であるが、まさに「ひとりの人間が覚醒してブッダ」となるというところである。
 では、「真理と云うが、いったいどんな真理に覚醒してブッダとなるのか」。実は、ここからが難しい。いや、難しいというのは、真理を覚るための修行や方法、その内容が難しいというのではない。難しいのは、人はよく「真理を覚るべきだ」というが、そういう場合、大抵は経験や幻想の自己欺瞞に陥りやすく(これは、『こころの通信』で何度も指摘してきたところであるが)、真理を見誤りがちであるという難しさである。
 だから、どんな真理に到達してブッダとなるかという命題は仏教の根本命題でありながら、まさに、そういった意味で難しい。
 その困難さを克服されブッダになられたお釈迦さまは、では一体、何を覚醒されたのか。その内容をことばにすること自体が間違いなので、もちろん、お釈迦さまはお説きになられることはなかった。それは、龍樹尊者やクリシュナムルティも同様であった。説くことの欺瞞性をブッダも龍樹尊者もクリシュナムルティも見抜いておられた。(龍樹:2000年前、インドの大乗仏教を確立した僧)
 ゆえに、ブッダは教えるのを拒まれたわけではなく、言語概念を超え、しかも、感覚が麻痺した神秘体験などの欺瞞性とは異なる、全き精神の沈黙や透徹した明晰性がなければ人が「不生」を覚醒することはありえないために、各人の覚醒を呼びかけられたのであった。
 では、この現象世界に繰り広げられる「生滅」あるいは「生死流転」に非ざる「不生」を活きるには上記のように、寂滅した境地や精神の沈黙に依らざれば不可能なのだろうか。それゆえ厳しい修行と修練が必要なのであろうかというと、ブッダも龍樹もクリシュナムルティも盤珪も、そのようなことは、また何かに至ろうとする欺瞞であると指摘をすることはあっても、そのような意味での修行によって至れるとは一言も発せられていない。ただ禅定と智慧(思惟)によってであると言われる。
 では、「不生」とは何であるのか。筆者は「不生」は現代的に云えば「エネルギー」であると見ている。確かに「エネルギー」は直接把握できないが、この現象界にさまざまに形態として、発生し、作用し、変化し、滅するけれども、まさにそのエネルギーそのものは変わらない。すなわち、「エネルギー不滅の法則」こそ、「不生」の法則性を如実に示している。エネルギーが先験的になければ、ものは発生してこない。そしていったん出現したものは即消滅しなければ、エネルギーが新たに開花することはない。この現象界も、あるいは物質界を超えたエーテル界、アストラル界、メンタル界、ブッディ界、コザール界などといわれる意識界や霊界といわれるものもエネルギーが生死流転することによって展開している虚妄なる世界である。ゆえに「それらに執着するな」とブッダも龍樹もクリシュナムルティも語られ、盤珪は「身びいきが執着と迷いを生むからそれを離れよ」と語る。生滅する世界に執着するのは自己中心性にほかならない。遍満しているエネルギーを断片化しようとするものである。太陽光を切り出して使おうとしても、切り出した途端、光は消えるようなもので、光源であるエネルギーが背後に脈々と息づいていなければ光は生まれることはないようなものであろう。つまり、「エネルギー」も「不生」も現象世界を生み出しはしても、この現象世界でそれらを把握することはできないが、それは、決して「零」や「虚無」、「うつろな空っぽの空」とは全く異なり、「常に新たに創出する」無碍自在に遍満する「慈愛」そのものにほかならないものである。「不生」が無限のエネルギーとして到来し現象化するがゆえに「如来」といわれ、エネルギーが常に新たに刻々に創造されるがゆえに「活仏」といわれ、まさにわれわれ自身をもたらしているものこそ、この刻々のエネルギーすなわち「不生」であり、刻々に意識化する「不生の仏心」であり、それは後天的に獲得され、脚色されるような代物ではなく、「カラスの声、雀の声、それぞれの声が、聞こうと思う念を生ぜずに居るに、カラスの声、雀の声が通じ別れて、聞きたがわず聞かるるは、不生で聞く」あるがままで天真爛漫な「不生の仏心」である。
 まさしく、その「不生にして霊明なる仏心にきわまったと決定(けつじょう)して、直に仏心のままで居る人は、今生より未来永劫の活仏(いきぼとけ)活如来(いきにょらい)でござるわいの」である。

萬歳楽山人 龍雲好久