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作成日:2011/06/20
心の通信H22・11・1《本不生を覚る時代》
本不生を覚る時代

 雨がしとしとと庭の竹の葉を濡らし、時折、野鳥の声がするどく響く静かな一日である。
 手元に数冊の読みかけの書物がある。いずれも翻訳ものだが大著で難解なものである。どんなものか一部をご紹介すると、『エノク書』(旧約聖書外典)、『シークレット・ドクトリン』(マダム・ブラヴァツキー著)、『エノクの鍵』(J,Jハータック著)、『聖と俗』(ミルチャ・エリアーデ著)、『進化の構造』(ケン・ウィルバー著)、『新復活』(高橋信次著)なるものである。この中で学術的で著名なものは宗教学者エリーアーデと宗教思想哲学者ウィルバーのものであるが、他の書物は霊性上の叡智の書としか他に形容しがたい不可思議なる書物である。なぜ、手元にあるのか。これも不可思議としか言いようがない。いずれも神聖壮大なる神の意思と大宇宙の経綸を扱った不二一元の啓蒙の宗教書なのである。これらにとどまらず、世界に散らばる古代神話を含め天地自然の創造のシナリオは、書かれた時代や文化や宗教など歴史的にもかなり隔たりと、異なりがあるにもかかわらず、その象徴的な意味合いは驚くほど一致しているのである。人類の潜在的太古からの共通意識が物語るためであろうか。特に近現代ではブラヴァツキー、ハータック、高橋信次のものが完全に一致している。高橋信次は昭和51年6月に48歳で他界するまで、その当時側にいた小生に対し、三ヶ月間、毎日のようにエルランティの太陽系霊団の壮大なる宇宙論を紐どいてくださった恩師である。その意識のレベルはメタトロンであると小生は確信しているが、平成22年9月に、ひょんな事で出版されたばかりの『エノクの鍵』(J,Jハータック著:原著は高橋が語りだす?年前の昭和49年頃に啓示が与えられている)を手にして、全く驚いてしまった。全く高橋の紐どいている世界を証明し、補完するものにほかならないからである。これは、まさに驚愕としか言いようのない大宇宙経綸・神々の意思についての一致であった。なぜ、このようなことが起こりうるのだろうか。まさに、不可思議である。思わず体が打ち震えてしまった。おそらくは、これらの書物に描いてあるとおり、人類の過去・現在・未来の壮大な宇宙神の計画書として、新人類としての霊性の飛躍がまさに起ころうとしているものが、“いま”なのであろう。地球上のあらゆる問題がその事実を加速化させてくるのかもしれない。いずれにしても、これまでにないとてつもないエネルギーの爆発化によって、一挙に人類の意識のレベルアップが図られるかもしれない。しかし、今の人類の意識の状態では、人類は宇宙の藻屑と化して、また、ゼロからの進化をスタートせざるをえないのかもしれない。皮肉なことに、そのきっかけとなるのがいわゆる「預言者」を立てる神の宗教による対立やイデオロギーや独裁的自我権力闘争の暴走である。今回は、紙面上、その詳細を論ずることはできない。また、小生、高度な宗教的叡智を云々できるものは何一つ確実なものは持ち合わせていない。ただ、はっきりしていることは、今人類がどのような局面に立たされていようとも、ひとりひとりが「不生の仏心」に目覚めていなければ、これらの偉大なる預言書は神といえども成就できないということである。それが、この全く取るに足らない田舎の弱小貧寺の愚鈍なる僧のもとに次々と起こる不可思議現象の真意ではないだろうか。
 さて、このような重大な局面を迎えている今日であるからこそ、ブッダ(覚者)の声を真剣に聴かねばならない。その声を権威とするのではなく、自らが覚醒するものであることとして・・・・・

覚者(ブッダ)の問い その2

 本不生を覚る禅定(瞑想)は極めてきびしい行為である。
 それにはもっとも高度な規律、自らに厳しい規律がもとめられる。
 しかし、その規律というものは、悟りを得るために、特定の宗教や修行方法に従うことではない。つまり、それらの教えやあるべき姿に順応したり、摸倣したり、服従したりすることではない。というのは、そのようにして課せられた規律性は、枷せられたものであり、条件付けられものであり、意図されたものであるかぎり、ダメなものからマシなものへ変わろうとする自己欺瞞があり、いかに、敬虔に、規律的に、鍛錬によって努力しても、本然の不生とはほど遠いところものである。いかに高邁な規律を掲げようとも、それを目指すことが規律であるのではない。
 では、ここで申し上げたい規律とはなんであるか。
 それは、たえまない気づきのことをいう。
 自分の外側でおこっていることだけでなく、内側でおこっていることにもたえまなく気づいていることである。
 本不生を覚る禅定(瞑想)行為はもっとも高度な規律、自らに厳しい規律がもとめられるが、それは、人里離れた山中や聖なる宗教施設に籠り、瞑想するというような、世間から隔絶していく行為にはなく、日常の生活のなかでおこる活動であり、それは、たえまない気づきである。
 確かに、日常の生活のなかでは協調性と感受性と知性が必要とされる。
 ただしい生活をしっかり築いていないと、瞑想はひとつの逃げ道になり、まったく価値のないものになってしまいかねない。
 ただしい生活とは、単に、社会の道徳にしたがうことではない。
 それは、自心のねたみや貪欲さや権力の渇望などから解放されており、心がまったく自由であることである。
 ねたみや貪欲さや権力の渇望などはすべて憎しみをうみだすものであるが、しかし、解放されるということは、解放されようとする意志のはたらきによって、それらから自由になろうとすることではない。
 まさに、あるがままの自分を知ることをとおして、それらに気づくことによって、たえまない気づきを通して、そのこだわりや執着、恐れなどのから自由になれるのである。
 自己を理解すること、自分がなにをしているのか気づくことがなければ、禅定瞑想行為は感覚の昂揚をもたらすだけの、自己満足でしかないものになってしまう。
 何らかの修行的方法によって、より広いより深い超越的な体験をたえず追いもとめていくのは世俗的思考から培われたものであり、ダメなものからマシなものへと移行しようとする不安や恐怖に駆られた意図的行為である。その本質は“あるがまま”の実際の現実から逃避していくひとつの姿にすぎ無い。確かに、意図的により良い結果をだそうとすることがそもそも我々であり、それによって築き上げられてきた世界に住んでいるのも我々自身である。しかし、その我々自身の変革・進歩・発展の創造の源、真の聖なるものや宗教的なるものは、そのような断片的自我中心的思考や信念によって生み出される俗なるものではない。人為的宗教や霊的ビジョン、国家イデオロギー、経済理念などによってもたらされる神聖なるものは決して聖なるものではなく、むしろ、それこそが俗なるものであることを、まず、我々自身がはっきり自覚せねばならない。
 “あるがまま”の現実とはわたしたち自身のことである。それは、わたしたちの条件づけられた心のことである。この心が、めざめていて、叡知があり、自由であるなら、ことさらにそれを“体験”しようとしたり、獲得しようとはしない。
 光は光である。光がもっと多くの光をもとめたはしないように、本不生でいることは、まさに、自分が自身の光であることにほかならない。

萬歳楽山人 龍雲好久