作成日:2011/06/20
心の通信H23・1・1《アシャラノーダ(大聖不動明王)の宣託》
アシャラノーダ(大聖不動明王(だいしょうふどうみょうおう))の宣託
新年を迎え 諸子の幸い多きことを祷らん。
殊に、今年は、人類意識が本不生(ほんぷしょう)の力を発揮すべく、大いなるアシャラノーダ(不動明王(ふどうみょうおう))のエネルギーが具体的に動き出すとのご宣託があった。その宣託を下したのは、なんと、平成20年1月にこの寺に突然、天恵のごとく現れ具わった「大聖不動明王と二童子」の尊であった。以前にも少しく触れたことがあったが、この大聖不動明王は仏師渾身の力作であるばかりか、不生(ふしょう)を現実化する神通力もかなりなもので、どうも、遅々として進まぬ無知蒙昧な小生の小心さに業を煮やして、自らやってこられて、この貧寺なる法圓寺を世界人類意識の変容の不生の現出する力点(パワーポイント(菩提道場(ぼだいどうじょう)))とされておられる。爾来、氷の秘蹟、すなわち、実際に「聖体出現」という不可思議現象が三度にわたり起こった。これは伝説や神話、霊界や天界、天国や極楽浄土の物語に出てくることを除けば、まことに希有なことで、現実に三位一体の神像や南天(南インド)のアルナチャラ山や天地創造に深く関わった萬歳楽山、カルラの剣やナーガ(竜王)など太古の昔から天地創造、真の転生、宇宙規模の大転機に出現メタトロンの威光のすべてが、この田舎の小さな寺の更に小さなつくばいの中に現出し、しかも更に小さな小生をして様々な意識の変容をうながすかのように厳しい苦い試練を次々に与えている。
その現象の源は前述の大聖不動明王にあった。この大聖不動明王は、愚かなものの野心はことごとく打ち砕くという試練を起こすので、小生の「あるがままの話」に付いて来るものは少なくなった。その最大の原因は私自身に「意識の変容が起きていないこと」を告白せねばならない。それを見抜くものは見抜いている。が、それでも、なぜ、小生の近辺でこのような不可思議な現象が頻繁に起こるのか。それは、小生がどこからどう見ても取るに足らない凡庸(ぼんよう)で自己中心の凡夫そのものだからこそ、起こるのであろうか。
確かに、聖者や聖人であればこのような現象は要らない。彼、自らの動きが人々を変えることだろうし、実に多くのものが集うであろうからだ。 ということは、この「聖体出現」の最大の眼目は、凡夫(ぼんぷ)である「底辺の我々自身が変わらなくてはならない」ことを促すために「不動明王の自らが験(げん)を顕し、力を貸してくださる」ということである。
しかし、あるがままの我々自身の煩悩をことごとく焼き払い、清めたもう真の不動明王の働きを理解するのは難しい。なぜなら、強かろうが弱かろうが見え隠れする野心はことごとく打ち砕かれるからであり、横行する不条理に対する激しい怒りすらも自身のカルマの浄化の視点がなければ、その矛盾と悲惨の前に疑心暗鬼がはしり、真意を把握しそこねるからだ。
卑小で狭量な精神は野心からくる。一方、問題に対する激しい怒りで自己改革を諮るものは、決して他をさばくものではない。なぜなら、その根底に人類意識の普遍性に通じている不生(ふしょう)のエネルギーである慈悲(じひ)の炎が燃えさかる精神は屈託がない。こだわりこそ野心である。ここが小生自身にとって最も困難なところなのだが、この大聖不動明王の慈悲すなわち本初不生(ほんぞふしょう)の仏心(ぶっしん)に通じていなければ、どんな優れた良いことでも、偏狭なただの野心にすぎないこと露呈してしまうからだ。ここがわれわれ凡夫には一番難しい。しかし、難しいからこそ、あえて、不動明王は自ら動き出されて、われわれ凡夫に対しこの不可思議な験(げん)を現し、われわれを浄化に導こうとしておられるのだ。
まさに、その大聖不動明王から、今年は人類意識の変容をきたし、本不生(ほんぷしょう)の力を発揮させるべく、大いなるアシャラノーダのエネルギーが具体的に動き導きだすとのご宣託が下った。
以下、その宣託の内容である。
窮に瀕したとき、迷わずに、われ(大聖不動明王)を呼べ。
ノウボウ アシャラノダ ビージャーランジャー。
ノウマクサンマンダー バーザラダンセンダー マーカロシャーダー ソワタヤ ウンタラタカンマン
南無遍照金剛
これを日日、ことあるごとに、窮に瀕したときに、祈れ。
(不動明王であるわれは)本不生(ほんぷしょう)のエネルギーを持って、汝の窮地を必ず救済し、現象以て示さん。実践して自ら確かめて、確信せよ。不生の力は理屈ではない。現実の力である。
この現象によって、汝は「五眼(ごげん)を開眼(かいげん)」するであろう。
「五眼(ごげん)」とは人間の肉身が所有している「肉眼(にくげん)」、霊界の天人の「天眼(てんげん)」、一切(いっさい)の現象は空(くう)であると見抜くことのできる「慧眼(えげん)」、菩薩(ぼさつ)が衆生(しゅじょう)を救うために一切(いっさい)の法門をあるがままに照見するところの「法眼(ほうげん)」、仏陀の所有している、前記四眼をすべてそなえた「仏眼(ぶつげん)」のことである。これらを順次あるがままに自己凝視することによって「仏眼(ぶつげん)」を開くのである。
我(大聖不動明王)が願いは
汝自身を開眼(かいげん)し、すべての世界において本不生(ほんぷしょう)の力の漲(みなぎ)りたるを知り、不生(ふしょう)の仏心(ぶっしん)たらしめることにあり。汝 必ずや具現(ぐげん)せん。
萬歳楽山人 龍雲好久
(注:筆者は、ここで、宗教的体験をもとに、心の中で思うことをあるがままに述べさせていただいておりますが、決して、特定の宗教や信仰を強要するものではございません。ご理解ください。不可思議な現象は事実ですが、それをどう受け止め、どう理解されるかは読者ご自身の問題になりますし、それは、全くご自由なことです。)