凍てつく夜風もピタリと止んで、今朝は穏やかな朝日がさしている。軒先や木の枝でさえずる小鳥たちの声も嬉々としている。
遙か西の空から渡り鳥の声がするので、空を仰ぐと、白鳥の群れであった。空気が澄んでいるのだろう、はるか上空をV字型に編隊を組んで、こちらに近づいてくる。白鳥たちの羽音が、無音のままに、力強く耳元まで届く感じであった。
街が動き出すにはまだ早く、寝んでいる家々や庭先に、静々と、雪片が真っ直ぐに降りている。
その舞い降りる雪花弁はあたりを全き静寂のなかに包んでいるかのようであった。
ふと、ある思いが湧いてくる。
いま起きているこの無意味な戦争を止められないのだろうか。私は、あまりに無力で、限られた者でしかない。このまま、どうすることもできず、自分のことにかまけたまま消えてしまうしかないのだろうか。いったい、この凄惨な現実を前にして、いまさら、どう生きて、行動しろというのだろうか?
すると、どこからともなく、ある不思議な思いが返ってきた。
人も世界も、いつも生老病死の挑戦を受けつつ、その行動について頭を悩ませている。そしてそれは生の複雑さに遭遇すればするほどますます悩ましいものとなる。目覚めれば、やらなければならないあまりに多くのことがあり、即座の行動を要する事柄に直面する。私自身において、私たちの周りの世界において・・・そのイデオロギーや信念などの価値観、道徳、戦争や平和、災天変地異・・・は絶えず、激変の波にさらされている。そして人も世界もこのような不測の事態、緊急を要する行動を前にして、完全に途方に暮れてしまう。
人も世界もつねに大きな生の問題に直面し、「何をすべきか」と自問せざるを得ないでいる。そして、こうした大きな事変を前にしては、人はたいていのものに対する信頼は裏切られ、それらを失ってしまう・・・指導者に対して、教師たちに対して、信仰に対して。そして、そのたびに、人はしばしば道を照らしてくれるような明確な原理が、何をなすべきかを告げてくれるような権威が、この苦悩を救済してくれる見えざるものの何かがあってくれればと願うのである。
しかし、このような規範は、いつも、心の中では、これは既に死んだ、過ぎ去ったもので、現実には何も役に立たないものであることを思い知らされてきたにもかかわらず、たえず私たちはそれを探し求め、それは一体何で、自分は何をすべきなのかという自問に立ち戻ろうとする。
自身及び世界の事実をありのままに観察すればわかることだが、私たちはいつも一つの中心から行動している。縮小したり、拡大する一つの中心から。時にそれは非常に小さな輪であったり、あるときは包括的で排他的な、完全に満足できるようなものであったりする。
だが、しかし、それはいつも嘆きと悲しみと、流れ去る喜びと惨めさの、魅惑的なまたは苦痛に満ちた過去の中心である。それは私たちの大部分が意識的無意識的に知っているものの中心である。そしてこの中心から、私たちは行勤し、そこに根をもつ。
今あるいは明日何をすべきかという問いかけは、つねにこの中心から考え、得られた答をいつもその中心に記憶させる。他者からであれ自分自身からであれ、答を受け取ると、私たちはその中心のもつ自己限定に従って行動する。まるで、それは柱につながれたいきもののように、その行動は綱の長さに限定されているのだが・・・。
こうした行動は決して自由ではありえず、そこにはいつも苦痛と対立、欺瞞に満ちた破壊と搾取を繰り返しながら、無情で無慈悲な凄惨極まりない地獄の現実をもたらす。
この事実を前にして、人も世界も、その中心にあるものは自らに言う。どうすれば私はこの地獄の苦しみから自由になるだろうか、自由に幸福に、完全に、あるがままに、活き活きと生きられるようになり、悲しみや良心の呵責なしに行動できるようになるのであろうかと。
が、そうたずねているのはなおもその中心である。中心は過去である。その中心は報酬と処罰、成功と失敗、そしてその動機づけ、原因と結果の関係でだけ行動することを知る利己的な活動をもつ〈私〉である。その自我の鎖につながれており、その鎖が、中心であり、牢獄であるのだ。
〈私〉という中心につながれているかぎり、そのいのちの生老病死の獄舎に怯え、恐れ、慄き、苦しみ、進退窮まるしかない。
しかし、こうした自我の苦しみから解放された中心のない空間、原因と結果を超えた次元が存在するときにだけやってくるもう一つのいのちの行動があることに気づかなければならない。ここ、即ち中心に据えた私という自我から解放されたものは、生きることが本来の行動になる。
中心をもたないここでは、なされることは何でも囚われや執着から自由な、喜びに満ちた、苦痛や快楽とは無縁のものである。
これは、努力や達成の結果ではない。全く中心が終わるとき、その別のものが出現するのである。
しかし、何よりもかけがえのない自己をどうすればその中心から解放させられるというのであろうか。それをなくすためには何をすればいいのかと私たちは再び自己に問うだろう。どんな訓練、どんな犠牲、どんな大きな努力をなさねばならないのか、と。
だが、そう!何もない!のだ。ただ、選択なしに、あるがままの中心の活動を観察すればいい。ただひたすら自身を世界をあるがままに観察するのである。
だが、そのときあなたは言うかも知れない。私にはできない、私はいつも過去の目と共に見ているからと。世界も同様に民族主義、理念、宗教などに基づき行動をしている。彼らを止めることはできないと。
それなら、過去の目をもって見ていることに気づいていなさい。そしてそれと共にとどまりなさい。それについて何かしようとしないように。あなたが何をしようとも、それは中心を強化するだけであり、逃避したいあなた自身の欲望の反応にすぎないことにただ気づいていなさい。
そうすればどんな逃避も、どんな努力も絶望もない。そのときあなたは中心がもつすべての意味とその途方もない危険性を見ることができ、そしてそれで十分なのである。
『完』
さて、これで、慶徳総合経営センター所長 慶徳孝一先生のご厚意によりご発刊賜りました『心の通信』への投稿は最終でございます。
じつに長期にわたりご発行いただきましたこと、有難く深く感謝申しあげます。また、拙文にも関わりませず、長い間ご愛読を賜りました、御読者のみなさまにも、心から感謝申しあげます。
『心の通信』は、畏れ多いことながら、われわれ「人類の意識の変容」をうながすべく、小生が学んだ「ブッダ親説」を根幹に据えて、つれづれなるままに寄稿させていただきました。慶徳先生に邂逅せざれば、このような奇蹟は生じ得なかったと思っております。
これもひとえに見えざる天上の如来や菩薩大天使がたの御導きによるものと確信いたします。
此岸(この世)と彼岸(あの世)は互換重合しており、一つであります。この世の地獄がなくならない限り、あの世の平安もないでしょう。故に、この世の人類のひとりびとりの意識の変容うながすべく、大宇宙大自然界の森羅万象全てのいのちが、見えざる本不生の全きかけがえのない唯一無二のいのちとして出現しており、そこにこそまことのいのちの尊厳性はあり、その尊厳性はいかなるものによっても破壊されえぬものであります。
ただ、浅学非才の愚僧ゆえに、充分に天上の意志をお伝えしきれませんでしたが、みなさまの御平安とご健勝をただひたすらご念じ申しあげ、また、『心の通信』に深く関わり、お世話くださいましたみなさまに深く感謝を捧げつつ、寄稿文の「完」といたします。
まことに有り難うございました。
萬歳楽山人 龍雲好久